四万たむらの歴史

HISTORY

室町時代創業



宿

室町時代より代々受け継がれてきた温泉宿。

  • イメージ:四万たむら
  • イメージ:四万たむら
幼少の頃、家族に連れられ、夏休みの間滞在するのが
「四万たむら」(当時は賽陵館田村旅館)でした。

部屋は襖1枚で仕切られただけ。湯治客は1週間なり、
長い方は1ヵ月の間和気あいあいと過ごす。
まるで東京の租界(逗留地)のようでした。

私が14代目を継いだ主人に嫁いだのは昭和34年。
当時の四万は時代に乗り遅れた、よくいえばのんびりとした
湯治場リゾートでした。

四万たむら、四万グランドホテルをオープンしたいまも、
旅館の基本は、人と人とのふれあい。
湯治場のおもてなしの心はいまも変わりません。

四万温泉の起源を語る二つの伝説 四万温泉の由来

ひとつは、平安時代の初期、征夷大将軍として蝦夷征伐に向かう坂上田村麻呂が、この地で入浴したことが始まりという説。

もうひとつは、永延3年(989年)、源頼光四天王の1人として勇名を轟かせていた、日向守碓井貞光による発見説。
碓井貞光が四万の地を訪れ野営したとき、夢の中で現れた童子が「私はこの山の神霊です。あなたの読経の誠心に打たれたので、四万の病を治す霊泉を授けましょう」と言ったことにちなんで「四万温泉」となったというものです。

この湯は、四万最奥にある『御夢想之湯』と伝えられ、今もこんこんと湧き続けています。

1.明治43年頃の賽陵館 田村旅館1

2.家紋2

  • 1.明治43年頃の賽陵館 田村旅館
  • 2.家紋

1563年 永禄六年

四万たむらの始まり

たむらの祖・田村甚五郎清政が四万温泉に来たのは室町時代永禄六年(1563年)です。
甚五郎清政は、山城として有名な吾妻の岩櫃城の六代目城主斉藤越前守基国に仕えておりました。
その年武田勢に攻められ越後に逃れる時、四万山中に路を求めましたが、更に北上する城主の行先を守るため、ここにとどまり追っ手を防ぐこととなりました。やがてそのままこの地に土着し、四万川の中から湧出する温泉を発見して、湯宿を始めたのが四万温泉の始まりと言われています。

天保三年(1832年) 吾妻四万村新湯の絵図天保三年(1832年) 吾妻四万村新湯の絵図

仁王像がやってきた経緯

「本仏像二体は、明治晩年十二世田村茂三郎が上越国境を越へ浅界神官の家に宿りしおり、神官の内職の技として刻めるものを求めたるものなり」
との書付が残っております。
有名な仏師の作ではありませんが、明治の時代歩いて山越えすることを思うと、たむらにとっては大事なもののひとつです。
その隣の、
「三七日の 四萬の薬師の効ありて 五臓六腑に 病なかりけり」
の彫り物の画像ですが、こちらは、
子爵 品川弥次郎 口筆
「本歌は明治十七年八月七日 子爵が「粥腹」の歌と併せ詠みて賽陵館館主 十一世田村茂三郎に贈り 訣別の紀念とせり」
との書付があります。品川弥次郎は、明治の内務卿となった方です。

仁王像がやってきた経緯

  • 仁王像仁王像
  • 龍の彫り物(高村光雲作)龍の彫り物(高村光雲作)

四万たむらの母屋

たむらの母屋は、江戸時代天保五年(1834年)十代田村茂左衛門により改築されたものです。
江戸時代の初め領主真田氏から「湯守」の役を任ぜられており、神社仏閣と同様な裾の反りあがった「向破風」の屋根を造ることを許されました。
建物の中に入ると奥が一段高くなっており、位の高い方が休まれた書院造りの「上段の間」その手前には従者が待機した「中の間」と呼ばれる部屋が残っています。

四万たむらの母屋

幕末から
明治の頃

幕末から明治初年の四万温泉は、火災や榛名山の噴火などで一時さびれた状態でありました。
慶応義塾で学び、福沢諭吉先生に直接薫陶を受けた12代目当主・田村茂三郎は、「四万温泉は不便だからなかなか行かれない、これからの観光は交通だよ」との師からの進言を受けバス会社を設立しました。当時四万温泉へは馬車に頼るしかない時代でした。
温泉組合が成立された明治21年(1888年)頃から、日清戦争の終わる明治20年代末頃にかけて賑やかになり、明治時代後半には道路の整備などが行なわれ、新湯地区を中心に再び活気を取り戻してきました。
当時の湯治客は、短い人でも1週間、長い人になると1ヶ月も2ヶ月も逗留していました。

福沢諭吉先生と十二代館主、
茂登馬のエピソード

12代館主となる茂登馬は慶應義塾の卒業生で、福沢諭吉先生から直々に教えを頂いたそうです。福沢先生曰く、「田村君、四万温泉は遠いので私は行けないがこの写真を持っていきなさい」と肖像写真を頂き、今も「四万たむら」の中の間に飾ってあります。
また、福沢先生曰く、「田村君、これからは交通手段がとても重要になるから良く考えておくと良い」と言われたそうです。
そして12代館主となった茂登馬は、群馬自動車会社を設立し、渋川駅から四万温泉まで定期バスを走らせました。

福沢諭吉先生と十二代館主、茂登馬のエピソード

永く湯治客を迎えてきた 茅葺屋根の玄関

皆様を迎える入母屋造りの茅葺屋根の玄関は、天保5年(1834)年に建てかえられたものです。
昭和まで湯治場としてあった「賽陵館田村旅館」をそのまま残す佇まいは、現在、四万たむらのシンボルです。

賽陵館の命名は、幕末の漢学者、寺門静軒が九代目田村成憲(11代茂三郎の父)に寄贈した漢詩に由来したものと伝えられています。

詩は、「中国・晋の時代の理想郷である武陵桃源より、温泉が湧いているだけに四万の方が勝っている」と歌っています。

  • 現在の玄関現在の玄関
  • 大正初期の玄関大正初期の玄関

水源きわまるところ 別に天をひらく
はじめてしる 人間地あって仙
かえってひす 武陵に一着をえいす
当年いまだ 温泉をきせず
四万にそくすること せいけんこじ

四万川に沿って谷間を行くと、
急に天がひらけたように広くなって、昔の話の花咲き鳥がなく
ユートピアのような武陵桃源よりも、
ここは温泉が湧いているだけ勝っている。

文化人・著名人の逗留宿として

当地には多くの文人・著名人が訪れています。
文化人の定宿として賽陵館田村旅館(四万たむら)は愛され続けました。

  • ひらさわきょくざん 平沢旭山

    1733 - 1791 江戸時代中期の儒者

    享保(きょうほう)18年生まれ。36歳のとき江戸昌平坂の林家に入門、のち片山北海にまなぶ。文章家で、生涯に文章3000編をかいたという。寛政3年1月15日死去。59歳。山城(京都府)出身。本姓は山内。名は元畳(げんがい)。字(あざな)は除侯。通称は五助。別号に売道山樵。著作に「漫遊文草」「平沢旭山日録」など。天明2年にご来館。
  • てらかどせいけん 寺門静軒

    1796 - 1868 江戸後期の漢詩人

    名は良、字(あざな)は子温、通称弥五左衛門。江戸で私塾を開く。「無用之人」の自覚のもとに著した、漢文の戯畫「江戸繁昌記」が幕府の出版取り締まりに触れ、のち諸国を放浪。弘化5年にご来館。
  • まえだゆうぐれ 前田夕暮

    1883 - 1951 歌人

    神奈川県生まれ。本名、洋造。「詩歌」を主宰。「明星」の浪漫主義に対抗し自然主義を標榜(ひようぼう)、若山牧水と並び称された。のちに口語自由律短歌をも手がける。歌集「収穫」「生くる日に」など。若山牧水「みなかみ紀行」にて日村旅館が登場しますが「泊まり方が違って旅館も困っただろう」と、取り成しの文を残していただきました。
  • さいとうもきち 斎藤茂吉

    1882 - 1953 歌人

    山形県生まれ。東大医学部卒。正岡子規に傾倒、伊藤左千夫に師事。「アララギ」の中心的な同人生の感動を表出した歌集「赤光」や「あらたま」によって文壇を瞠目(どうもく)させた。他に歌集「ともしび」「白き山」、歌論集「望馬漫語」、評論「柿本人麿」など。
  • たからこうたろう 高村光太郎

    1883 - 1956 詩人・彫刻家

    東京生まれ。光雲の子。彫刻を学びロダンの影響を受ける。また、早くから詩を発表。詩集「道程」「典型」「智恵子抄」、美術評論「美について」、訳書「ロダンの言葉」、彫刻に「手」など。
  • なかむらふせつ 中村不折

    1866 - 1943 洋画家・書家

    十二代茂三郎が下関条約を結んだ春帆楼を模した建物を作るとき、当時親交のあった中村不折に命名を依頼しました。不折は温泉がたくさん涌いている四万温泉でお客様に喜んでいただける部屋を作ろうと「金涌館」と命名。扁額も揮毫され、今も館内に飾ってあります。
  • あんどうつるお 安藤鶴夫

    1908 - 1969 演劇評論家・小説家・随筆家

    東京浅草生まれ。法政大学仏文学科卒。八世竹本都太夫の長男として生まれ、芸能記者として都新間、東京新聞ほかに文楽、落語、演劇評を執筆。そのかたわら、下町っ子らしい生活感がにじみ出たエッセイや、大の最演だった桂三木助にスポットをあてた「三木助歳時記』などの芸談物を発表し好評を得ました。お得意さまからのご紹介でいらしてくださり、またお得意様に、というお客さまのおひとりでした。歌舞伎役者の尾上多賀之丞さまのご紹介で当館のお客さまとなりました。昔はお部屋指定で長逗留の方が多く、多賀之丞さまは金涌館8号室。安藤さまは別宅の二階が決まりでした。昭和44年なくなるひと月前までいらしており、当館から電話でTBSラジオ番組の永六輔氏との対談をされました。
  • よさのあきこ 与謝野晶子

    1878 - 1942 歌人

    大阪府生まれ。本名、しよう。旧姓、鳳(ほう)。堺高女卒。明星派の代表的歌人。処女歌集「みだれ髪」によって大胆に女性の官能と情熱をうたい、明治30年代の浪漫主義運動の中心となった。四万温泉の四季を歌に残している与謝野晶子は、四万を好んで湯治に訪れ、美人の湯と言われる岩根の湯を好んで入浴していたそうです。

    四萬の湯の 龍宮と云ふ
    浴房のうちに隠れて
    わが思ふ夢

    月いでぬ 川に向かへる
    岩根湯の廊に裸の人の
    あまた立ち

    たむらのお風呂を詠んだ歌

  • こだまきよし 児玉清

    1934 - 2011 俳優・タレント・司会者・作家

    戦時中、田村旅館へ集団疎開していた俳優・児玉清さん。その縁で四万温泉を舞台にしたNHK朝の連続ドラマにも出演。四万たむらとの親交は亡くなるまで続いておりました。

    児玉清

国民保養温泉地第一号

群馬、新潟、長野を含む四万温泉の周辺は、昭和24年(1949年)に優れた風景地として上信越高原国立公園に指定されました。
そして昭和29年(1954年)、四万温泉は厚生省(現・環境省)より全国で初めて国民保養温泉地の指定を受けました。
以後、豊かな自然と調和した癒しの温泉地として、四万温泉は愛され続けています。

四万温泉

四万たむらの歴史ギャラリー

四万たむらの歴史を明治から昭和にかけてご覧いただけます。

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